刈谷市 真宗大谷派 順慶寺

赤貧時代を越えて

赤貧時代を越えて
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中興の坊守たず

第十七世・了俊は、異母兄弟(八人兄弟で、異母の子は七人)との確執により、一時順慶寺の住職を襲職したものの、再び京都に出て、本山の事務職に就任してしまいました。住職夫妻が不在という困難に直面し、門信徒は悩みましたが、明治十七年(1884)に夫妻は帰寺し、玄関と玄関門を新築して、明治二十四年(1891)に蓮如上人四百回忌を厳修しています。

その後、了俊夫妻は、寺務に対してまじめに取り組み、病気になっても法務を欠かすことがないなど、門信徒の信頼は篤く大変慕われることになりました。

こうして平安を取り戻した順慶寺でしたが、当の了俊が、明治三十七年(1904)に六十二歳で亡くなってから、坊守・たずは、遅くに生まれた息子・良因とともに、寺の行く末を案じ当惑しました。

坊守・たず
坊守・たず

順慶寺を、門信徒ともに大切にしていきたいとの了俊の願いを受け、歩んで行かなくてはならない。そうした中で奮闘したたずは、昭和十年十一月に七十七歳で亡くなりましたが、過去帳に遺された記述により、その努力を知ることができます。 「了俊、良因、良雅の三代の住職に仕え、その間赤貧の時代、良雅幼少時代の幾多の艱難の時代を切り抜け、忍耐刻苦して今日あらしめたるは、蓋し中興の坊守と言うべし。脳溢血によりにわかに命終さる。坊守の遺徳を顕彰し、納骨堂建設の議なる」(十九世・良雅による)生涯、門徒を大切にし、頭が低く、いつも門徒のことを思っていたという、坊守たず。願いは、もし自らが亡くなったら、門信徒とともに埋葬されることを願うというものでした。

こうした願いを受け、昭和十三年(1938)、寺族の墓地に納骨堂を建て、そこに惣門徒の遺骨を預かり、五十回忌を迎えたお骨を順に、寺族の墓地に埋骨するすることとなりました。

東屋の建築された納骨堂(平成17年)
東屋の建築された納骨堂(平成17年)

律儀な住職 十八世・良因

明治三十七年(1904)、十七世・了俊が六十二歳で亡くなり、当時としては晩婚だった了俊の長男であった良因が、明治三十八年(1905)十九 歳という若さで第十八世住職を継職しました。もちろん若輩であるため、世間からはまだ認められず、母親たずが門徒の皆様との間をとっていたと思われます。

その後、良因は、豊明村沓掛の正福寺様より節を坊守として迎えました。良因は、もともと、律儀な性格だったと言われ、何事にも真面目に取り組んでいたようです。良因が執筆を担当した、明治三十八年からの過去帳に記載された文字は、極めて整って読みやすいもので、歴代住職でも筆頭格です。また、良因の兄弟は、みな優秀で、俊成(今村専超寺様に入寺)、力(河野宗圓寺様に入寺、大谷派宗務顧問)、孝忍(五高=熊本大学教授)などがい ました。

18世・良因
18世・良因

若き良因が、絶頂だったのは、おそらく、大正四年(1915)に厳修された、親鸞聖人六百五十回御遠忌法要のときだったと思われます。順慶寺に今も掲げられている龍の欄間は、この時、責任役員で富士松村村長だった鈴木源吉氏より上げられたものだと言われています。大変質がよく、平成十五年の内陣洗いの際、一切手を付けなくても大丈夫だと太鼓判を押されたものです。その他にも、本堂の雨受け、灯籠、水舎の水盤、旧山門の大扉など、 これらはこの時に、同行衆が火の玉となって上げて下さったものと聞いています。

ところが順慶寺に、突然悲劇が訪れます。

大正六年七月、良因がその真面目さゆえに、チフスで亡くなった門徒さんに対して、お剃刀の儀式を執行したために、チフスに罹り、やがて高熱のため、同年八月一日に亡くなってしまったのです。行年三十六歳。

ここから、順慶寺は、赤貧に苦しみ、困難な時代が始まります。住職の代行をする院代をあちこちから頼み、葬儀や法事をやりくりすることとなりました。

順慶寺最大の赤貧時代

辞書で調べてみると、「赤貧とは、きわめて貧しくて、何も持っていない こと」を言います。

十八世・良因が大正六年八月に亡くなってから、順慶寺の経済の状態は、正に赤貧という言葉ぴったりといった、ひもじいものだったようです。良因が亡くなった年に、小学生の高学年だった、十九世・良雅は、後に、赤貧の時代を耐えて寺を支えてくれた、祖母・たづのことを過去帳に、「了俊、良因、良雅の三代の住職に仕え、その間赤貧の時代、良雅幼少時代の幾多の艱難の時代を通り抜け、忍耐刻苦して今日あらしめたるは、蓋し中興の坊守と云うべし」と書き残しています。

実際、良因が亡くなってから、しばらく院代を迎えて急場をしのいでいます。その時期の過去帳を見ると、妻・節の在所である、豊明本郷・正福寺様、安城今村・専超寺様の役僧をしていた花井勇立氏、岡崎大友・玉泉寺様、三重員弁・福楽寺様を院代として迎え、大正十五年までの十年間、住職が不在の状態でした。院代には、葬儀や法事をお願いすることになりますので、その間の寺の経済状態は、極めて厳しい状態になります。

こうした艱難の中、良因の妻・節が、大正十五年十二月二十日、三十八歳で亡くなります。

良因が亡くなってから、困窮する順慶寺のことを大変心配され、心から支えてくださったのは、今村専超寺様に 養子として入った、良因の弟・俊成氏。

様々な面で、順慶寺の世話をしてくださり、順慶寺のために内外で面倒を見てくださいました。

俊成氏は、節が亡くなったことを期に、当時大谷大学予科で学んでいた、良雅を呼び寄せ、昭和二年十一月十三日に、十九世住職を襲職させました。当時、良雅は、二十歳。おりしも、十八世・良因と同じ年で住職を拝命す ることとなったわけです。

専超寺様に多くの恩義あり

「先住良因死後、十年間、今村専超寺住職清水俊成氏兼務たりしが、良雅母節死亡したるにつき、大谷大学予科修了直ちに住職となる。時に年二十歳」これは、昭和二年(1927)十一月十三日、良雅が第十九世住職を襲職したときに、過去帳に記載された文章です。若干二十歳にして、住職を申し受けるということは、簡単なことではありません。他寺院に対することや、門徒に対することもほとんどのことが無知だったはずです。良因のかわりとして、叔父にあたる専超寺様の住職だった、清水俊成氏に頼り切りになっていたことが容易に想像されます。

19世・良雅
19世・良雅

そんな中、若干十九歳にして住職を受けた良雅を勇気づけようと、門徒一丸となって、興された事業が本堂の屋根替えでした。

当時の過去帳を見てみますと、本堂屋根替えにかかった総工費は、およそ3000円。昭和五年ころの価格を調べてみますと、白米一升18銭、年収780円だったといいます。現在の大卒の初任給を20万円として、当時の三千円を換算してみますと、総工費は、およそ8200万円。おそらく、この度の御修復(平成三十年)における、本堂の屋根替え部分にかかった費用とほぼ同等の額がかかっていたことが分かります。現在ほど経済状態が良くなく、ほとんどの門徒が農業従事者で、現金収入も少なかったであろう時代に、これだけの事業を達成させたことは、まさに一大事業だったことは容易に想像ができます。

また、過去帳には、人工およそ三千人と記してあります。昭和二年十一月の良雅住職就任から昭和三年末日までの、およそ十三ヶ月が屋根替えの工期だったとみますと、毎日十人以上の人が人工として出ていたことになります。当時、門徒の方々が順番に、屋根瓦や屋根土を担いであがったとされていますので、二万枚ほどの瓦、土台への加重と屋根のアールを出す為に、大量に盛られた屋根土を、精一杯汗水流しながら大屋根に運びあげて、尽力されたことが分かります。

二代続いた住職の早逝

順慶寺十八世・良因、十九世・良雅、ともに十九歳という若さで順慶寺住職を継承しました。その間、順慶寺の経済状態は非常に苦しく、赤貧状態だっ たとされています。

その後、良雅は、寺院同志の諸活動や、青年団活動、その他様々な活動を熱心に推し進め、戦前に、納骨堂ができたころには、かなりの良好な状態になったようです。

しかし、良雅が太平洋戦争に召集され、住職不在の状態となってからは、再び経済的に苦しくなりました。終戦を迎えて、良雅が帰還し、住職に復帰してからも、その状態が続きます。

そんな中、昭和二十四年(1949)九月九日、良雅は四十二歳の若さで亡くなってしまいます。兵役で弱っていたところに、諸活動を再開し、日常の法務に従事したために、肺を患い、結核ではないかとの医師の診断を受け、治療のためにマイシンを沢山打ったことによる、脳梗塞が原因でした。当時、若院だった、二十世・良裕(現老院)は、まだ、十七歳で高校生でした。

それからは、戦後の混乱も重なって、順慶寺は再び赤貧の状態になります。

老院の話によると、高校に徒歩で一時間かけて通学したり、大学に上げてもらっても学費は門徒の皆さんが負担して下さり、門徒の皆さんの支えによってようやく卒業できた状態でした。 老院が大学を卒業するまで、再び住職不在の状態となった順慶寺には、今村・専超寺様より清水俊成氏がお忙しい中、再び院代を勤めて下さいました。

昭和三十年、現老院が二十世住職に就任し、以降、蓮如上人四百五十回忌、親鸞聖人七百回忌、親鸞聖人御誕生八百年と、大法要を十年おきに厳修させていただきました。丁度、日本の高度成長期と重なり、もともと信仰心の篤かった門徒の皆さんが、「御遠忌は十年おきに勤めて、お稚児さんを沢山出すご縁を作った方が、寺や門徒の繁栄のためにもいい」、との声に後押しされたものでした。

三度の大法要を厳修させて頂く度に、庫裏の修繕、鐘楼の新築、水舎の新築、奥座敷の修繕などがなされ、現在の順慶寺の礎が築かれました。