阿弥陀仏の本願」念仏の概略・親鸞・唯円
2009年8月13日
「阿弥陀仏の本願」念仏の概略
― 遙か遠い昔に、一人の王が出家した、名前は法蔵(ほうぞう)といった。彼が出家した理由は世の中のすべての民衆を苦しみから救いたいという思いからだった。彼は修行にあたり「四十八の誓願」を立てた。その十八番目に次のことを誓った。
「私が修行の結果仏になれたならば、浄土に生まれたいと願って私の名前を称えたものあれば、すべての人を浄土に救いとります。」
法蔵は長い修行の末、ついに仏となり。名を改めて、阿弥陀仏となった。
つまり阿弥陀仏の名前を称えれば(=南無阿弥陀仏と称えれば)、すべての人は「浄土」に救いとられる。
法然はこれをもってすれば、民衆は死後の恐怖から救えると考え、この教えを民衆に広めました。これが「念仏を称えれば浄土に救いとられる。」教えとなって「浄土宗」が成立しました。
親鸞(法然に救われた人)
親鸞も比叡山延暦寺で仏教を九歳から約二十年間学び、修行をしました。しかし、いくら厳しい修行に勤めてもまったく、「悟り」、「心の平安」を得ることができませんでした。特に「性への欲望」に苦しめられたようです。
他の修行者の中には深く自分を見つめることもせずに、「自分は悟りを得られた。」と簡単に考えることが出来た者や、表向きは「仏教者」を装いながら、裏では戒律を破り、食肉をし、持妻した者もいたようですが、真面目で、神経質で、完全主義の親鸞にはそんなことはできませんでした。
いくら修行をしても「心が落ち着かない、煩悩を捨てきれない自分」に絶望した親鸞は比叡山を降り、都で「念仏」を教える法然の下に向かい、教えを請います。
法然の前で、親鸞は自分がいくら努力しても心の平安が得られないことをありのままに告白し、どうしたら自分は救われるのかを訊ねました。
法然は「阿弥陀仏の本願」念仏の教えを説きます。かなり乱暴な解釈ですが、私は二人の間でおおよそ以下のような会話があったと想像しています。
親鸞:「私はできる限りの修行をし、学問しましたが、悟りを得られません。私のようなものが救われる方法があるなら教えてください。」
法然:「念仏を称えなさい。そうすれば阿弥陀様が浄土に救い取ってくださる。」
親鸞:「私のような煩悩の多い人間でも救われるのですか?」
法然:「必ず救われる。阿弥陀仏の本願を信じ、念仏することです。」
親鸞:「わかりました。念仏をさせていただきます。しかし、私は特に性への欲望を捨てきれず、それがとても苦しいのですが、これはどうすればよろしいのでしょうか?」
法然:「持妻したほうが念仏し易いのなら持妻しなさい。持妻しないほうが念仏し易いのなら、持妻することはやめなさい。大切なことは阿弥陀仏の本願を信じて念仏を称えることただひとつです。」
親鸞は法然の下で、「念仏の教え」を学び、「あるがままの自分」で救われる喜びに浸ることができることになりました。又、同時に「持妻」することも許されるのでした。
しかし、この念仏の教えは既存の仏教の否定であるとともに、「念仏すれば救われる。」ことはつまりが、「仏の前ではすべての人が平等である。」ことになってしまうので、既存の権力者つまり仏教界、幕府から、弾圧を受け、法然は土佐へ、親鸞は越後に流罪になってしまいます。
唯円(親鸞の弟子、歎異抄の著者)
一般に「親鸞の歎異抄」と言われていますが、歎異抄を書いたのは親鸞の弟子である唯円です。唯円は親鸞の死後に念仏について間違った解釈をする者がいることを嘆き、師親鸞から教えていただいた、正しい念仏の教えを残す為に歎異抄を書きました。この書物のタイトル「歎異抄」は教えとの異りを歎いた文章の意味です。
以上がかなり大雑把ではありますが、歎異抄の成り立ちです。歎異抄は全部で十八章ありますが、十章までが、生前親鸞が語られた言葉を唯円が書き記したものです。ですので、私は十章までを私の理解の範囲でご説明させていただこうと思います。拙い私の意訳、解釈ですが、読んでみて頂けると幸いに存じます。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:05 AM











