終わりに

2009年8月13日

 私のような者が「歎異抄」について書くことが許されるのか、今でも疑問があります。本当に私の理解は正しいのか、親鸞聖人の信心を歪めて伝えることにならないかと心配です。

 只、私はうつ病を病むことで、歎異抄をすこし深く読めた気がします。又、うつ病の私にとって歎異抄で語られている親鸞聖人の信仰のあり方は最後の自分の支えになりました。ですから、私は私の理解の範囲で、自分に書ける文章で、私にとっての「歎異抄」を伝えたいと思いました。冒頭でも述べましたように、歎異抄は特に絶望を体験された方に響く書物のように思います。実際、癌に侵された方が歎異抄を読まれ、支えにされたといった話を聞いたことがあります。しかし逆に、理想に燃える若者には響きにくいかもしれません。若者には自分の中の仏性を目覚めさせ、善行を行っていく教えのほうが、よほどわかりやすく、響くであろうことは想像できます。しかし、私のような人間は人の役にたつどころか、人に迷惑がかからないように自分の始末もできないのです。「他力」にお任せする以外にないのです。言いすぎかもしれませんが、「選択の余地がない。」という感覚なのです。

 最後に、病の私を支えていただいている先輩方、友人、家族にお礼を述べさせていただきます。今まで支えていただきましてありがとうございます。これからも私はみなさんに迷惑をかけながらいきていくことになるとおもいますが、よろしくお願いいたします。

 そして本書を書くことを薦めていただき、いろいろご指導頂きました、順慶寺ご住職様、そして老院様、本当にありがとうございました。

平成十五年 初夏
落合政道

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:29 AM