第四章 私の意訳1 私の意訳2 私の意訳:最終稿

2009年8月13日

第四章

 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。また浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎて仏となりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかに、いとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと、云々。

 本書を書いている間に、私の第四章の解釈は大きく変わりました。本来なら、その最終稿のみを記載すればよいのかもしれませんが、私は自分の為にこの変化を書き残しておきたいと考えました。又、その方が、最終稿での私の理解を、より正確にお伝えできるのではないかとも思いました。ですので、本章では私の解釈の変化を時系列的に書かせていただきます。


私の意訳1

 慈悲の考え方には聖道門と浄土門で違いがあります。聖道門での慈悲とは自力で相手を憐れみ、悲しみ、守ろうとするものです。しかし、おもうように相手をたすけることはとても難しいことです。浄土門での慈悲とは念仏して死後いそいで仏となって、仏の大慈大悲心によって衆生を救うことをいうのです。生きている間に、いかに相手をかわいそうにおもっても、その慈悲に始終はないのです。そうであるなら、念仏を称えることだけが、唯一の大慈悲心なのです。

 本書を書くに当たり、監修いただいている住職様に「私の意訳1」を見ていただいたところ、「念仏して、いそぎて仏となりて、」の解釈に誤りのあることをご指摘いただきました。

 「そこを死後に、仏になると解釈してはいけません。私たちが生きて念仏を称えさせていただいたとき、その瞬間に仏の救いが私たちにとどいていることを言われているのです。」

 住職様は穏やかに私の間違いをご指摘されました。しかし、私は戸惑いを感じずにはいられませんでした。私が読んだ数冊の解説書にも「死後仏になる」意味の訳が載っておりましたし、対比する「今生に、」は「生きている間」と解釈する方が、自然に思えたからでした。私は何とか住職様にいただいた言葉を咀嚼し、自分の言葉にする努力を行いました。その結果が以下の意訳です。


私の意訳2

 慈悲の考え方には聖道門(自力)、浄土門(他力)で違いがあります。聖道門での慈悲とは自力で相手をああ、かわいそうだとおもい、悲しみ、守ろうとするものです。しかし、おもうように相手をたすけることはとても難しいことです。浄土門での慈悲とは念仏してまずただちに自分を救いとっていただき、仏の大慈大悲心によって衆生をも救いいただくことをいうのです。仏の救いに出会わずにあって、いかに相手をかわいそうにおもっても、その慈悲に始終はないのです。そうであるなら、念仏を称えることだけが、唯一の大慈悲心なのです。

 上記の意訳をお伝えしたところ、住職様から、

 「今回の意訳は、素晴らしいと思います。私は、この訳で、ぴったりくると思います。」

 との言葉を頂きました。しかしまだ、素直に頷けない自分がいました。実は本書を書くまで、私にとって第四章はあまり印象のないものでした。一章,二章を読んだときのような体の中を突き抜ける感動がなかったからです。そして今住職様にいただいた言葉によって、より正確に理解できたはずなのに、今だに自分の血肉となった感がないのでした。

 住職様から「私の意訳1」の解釈の誤りをご指摘いただいた際、理解を深める為に、金子大栄先生の「歎異抄」(岩波文庫)を読むことを薦められました。私は早速拝読させて頂きました。そうしたところ、以下の文に当りました。

 「この書に現れるものは、すべて告白である。身に感じたままをしみじみとあらわす述懐である。」<歎異抄 P21 岩波文庫><金子大栄 校注>

 私はその視点にて原文をもう一度読み直し、再度意訳に挑むことにしました。そして、その策として、文頭に「親鸞において」を追記する手段をとりました。


私の意訳:最終稿

 親鸞において、慈悲に聖道(自力)から浄土(他力)へのかわりめがありました。聖道に立ち、相手をああ、かわいそうだおもい、悲しみ、守ろうとしたのですが、おもうように相手をたすけることはとても難しいことでした。しかし、浄土に立場を移してからの慈悲は、相手をああ、かわいそうだと思い、念仏させていただい瞬間に、まず、自らに仏の救いをいただけたと気づかされ、私に届いている救いが、今かわいそうに思えた相手に対しても届いている事を知らされることでした。仏の救いに出会わずにあって、いかに相手をかわいそうにおもっても、その慈悲に始終はありませんでした。ですから、念仏を称えることだけが、親鸞にとって唯一の大慈悲心なのです。
上記の解釈がゆるされるのならば、私にとっての第四章はこれまでとはまったく違うものにすることができます。「私の意訳1」の解釈ではそれはただの「聖道門と浄土門」の解説文でした。ですから、私には響かなかったのです。しかし、私の解釈が「最終稿」にいたった時、私の目前に「体験を告白される親鸞」があらわれて、他力の教えを説いていただけたのでした。

 今私は私の過ちを「聖道門と浄土門の解説文になっていた」と書きました。しかし、私はもっと大きな過ちを犯しています。「私の意訳1」において私は暗黙の内に「聖道門は浄土門より劣っている意」を記しています。おそろしいことです。罪深いことです。親鸞は決して聖道が劣っているから浄土に立場を移されたのではないのです。第二章にて「いずれの行もおよびがたきみ」と告白されているように、親鸞には他力にすがる道より他になかっただけなのです。

 ここで、少し私事を述べさせていただきます。私が高校生時代に知り合った親友にS君という方がおられます。彼とはしばらく疎遠だった時期があったのですが、偶然にも彼も私と同様に仏教に惹かれていました。しかし私とは異なり、「自身の仏性を目覚めさせて、善行につとめる」聖道門の立場に身を置いています。彼は高校卒業後、就職しました。そして、家庭を持ち、今小学生の息子さんがおられます。そんな彼と最近久しぶりに会いました。彼は「より良い人になりたい。人を助ける人になりたい。」と澄んだ瞳で私に語るのでした。そしてそれは決して言葉だけのことではなく、実際に自らを高める為に仕事、妻子ある多忙の身でありながら、通信制大学に入学し、八年の歳月をかけて学び通し、今春ついに卒業することができたのでした。とても私にはできないことです。そんな彼の生きかたを見せていただいていたにもかかわらず私は「私の意訳1」にておおきな過ちを犯し、それに気づくこともなかったのでした。私は自分の中の「おごり」に恐怖を感じます。

 この場を借りてS君に謝罪と感謝を述べさせていただきます。

「君という友人を持ったことは私の誇りです。本当にごめんなさい。そして、間違いに気づかせてくれてありがとう。」

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:16 AM