第十章 私の意訳 私の解釈
2009年8月13日
第十章
念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。
私の意訳
念仏ははからいを超えたものです。はからう心では称えられないし、説明できないし、理解することもできない。といわれた。
私の解釈
親鸞は繰り返し、「念仏」は他力によるものであり、「自力」、はからいの心があるかぎり、称えることも、説明も理解することもできないと説かれています。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:24 AM
2009年8月13日
第十章
念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆへにと、おほせさふらひき。
私の意訳
念仏ははからいを超えたものです。はからう心では称えられないし、説明できないし、理解することもできない。といわれた。
私の解釈
親鸞は繰り返し、「念仏」は他力によるものであり、「自力」、はからいの心があるかぎり、称えることも、説明も理解することもできないと説かれています。
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