第六章 私の意訳 私の解釈

2009年8月13日

第六章

 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子の一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて、念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべかざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがへすもあるべかざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと、云々。


私の意訳

 ひたすらに念仏する仲間の間で、私の弟子、ひとの弟子という論争があることはもってのほかです。親鸞には弟子のひとりもいません。その理由は私のはからいで、ひとに念仏を称えさせたのであれば、私の弟子ということになるでしょうが、ただ、阿弥陀仏のお計らいにより念仏を称えるひとを、私の弟子だということはまったくむなしいばかりです。一緒になる縁があれば、いっしょに、離れる縁があれば離れるだけのことなのに、師にそむき、他のひとといっしょに念仏すれば、浄土に行けないなどということは、ありえないのです。阿弥陀様にいただいた信心を自分があたえたかのように、とりかえそうとするのでしょうか?重ね重ねあってはならないことです。はじめてはからいのない世界に出会えた後には、仏様の恩もわかり、また、師の恩を知るようになるのです。


私の解釈

 念仏は「絶対他力」のものです。仏様のお計らいによって称える縁をいただくものです。だから、親鸞は自分には弟子の一人もいないと言い切ります。

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:19 AM