第五章 私の意訳 私の解釈

2009年8月13日

第五章

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して父母もたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。


私の意訳

 親鸞は父母の追善供養のため念仏を称えたことは一度もありません。その理由はこの世の一切の衆生はすべて世々生々の父母兄弟であり、どの人も、次々に仏様になられて、今生きている私たちをたすけてくださるからです。念仏が自力の善であれば、念仏で父母をたすけることもできるでしょう、しかし、ただ自力をすてて、そのまま浄土のさとりを得られるのであれば、六道四生のあいだ、どのような苦しみにあっても、仏様の衆生救済の力によって、まずは縁ある人がすくわれるのです。


私の解釈

 私は今36歳ですが、私は十歳の時、父を癌で亡くしています。又、三十一歳の時、母を交通事故で亡くしました。ですので、私はすでに両親がいません。そして、私にとって母を亡くすことは、私に親と呼べる人がいなくなってしまうこと同時に、障害を持つ兄の保護者を引き継ぐことを意味していました。これがすべてではないですが、このことが、私がうつ病を病むきっかけとなりました。

 母をなくした後、私は住職様に「供養」ということについて、次の教えをいただきました。

 「お母様は亡くなられ、今は仏様になられています。世間ではよく、先祖供養と言いますが、亡くなった方は阿弥陀様の本願にて、浄土に帰られ、仏様になられているので、生きている私たちが、亡くなった方を供養すると考えることは間違いなのです。仏様になられたお母様は今あなたのことを心配し、見守ってくださっているのです。いわば、供養されているのはあなたの方なのですよ。」

 本書を書くに当たり、幾つかの歎異抄の解説書を読まさせていただいたのですが、上記のような意訳をされた本はありませんでした。しかし、ご住職様にいただいた教えは私の理解となって、その深さは比べられるものではありませんが、ご住職様と共有するものとなっています。その理解を私の言葉に下ろすことで、上記の意訳となりました。

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:18 AM