第二章 私の意訳 私の解釈
2009年8月13日
第二章
をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかえりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、または法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏まうして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたきみなれば、とても地獄は一定すみかぞし。弥陀の本願まことにおわしきまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらうか。詮ずるところ愚身の信心にをきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。
私の意訳
みなさんが十以上の国をこえて、命がけで、来られた目的は、浄土にゆく方法ただひとつを知りたいためですね。しかし、私が念仏以外に浄土へゆく方法をしっていたり、法文等をしっているのではないかと、疑っているのであれば、大きな誤りです。もしそのようなものが知りたいのであれば、京都や、奈良に立派な学者が大勢おられるので、その方々に教えてもらってください。親鸞においてはただ念仏して、阿弥陀様に助けていただくだけであると、法然様に教えていただいたことを信じているだけで、他の理由はありません。念仏が本当に浄土にゆく方法であるのか、または地獄に落ちることになってしまう行いであるのか、まったく興味がありません。たとえ、法然様に騙されて念仏したために地獄に落ちたとしても後悔はありません。その理由は私が修行をして、悟りを開いて仏になれるような人間であるならば、修行をやめ、念仏したために、地獄におちたことで、騙された。と後悔するかもしれません。しかし、私はいくら修行をしても煩悩を捨てきれない人間であるので、念仏をしようとしまいと、私は地獄に落ちるべき人間なのです。阿弥陀様の本願が本当であるなら、釈尊の説教は本当でしょう。釈尊の説教が本当であるなら、善導の解釈もうそではないでしょう。善導の解釈が本当ならば、法然の教えもうそではないでしょう。法然の教えが本当ならば、親鸞がいうことも、うそではありません。結局愚かな私の信心はこれだけのことです。ですから、このことをお知りになった上あなた方が念仏を信じられようと、捨てられようと、あなた方にお任せします。
私の解釈
私はこの章が一番好きです。「たとえ地獄に落ちてもいい。」といえるほど人を信じられたら、なんとすばらしいことでしょう。親鸞が法然から初めて念仏を教えられるのは二十九歳のときです。それから、流罪になる三十五歳まで、親鸞は法然の下で学びます。煩悩の多い自分を救っていただける法について学ぶ六年間は親鸞にとってもっとも幸せな期間であったことでしょう。しかし、親鸞は流罪を契機に法然と別れなければならなくなります。そしてその間に法然は死去することになりますので、親鸞が法然の下にいられたのは結局この六年間だけでした。親鸞は法然と別れた後、師の教えについて繰り返し思索し続けたとおもわれます。しかし、今まで身近に支えになっていただいた師がおられなくなったことは「念仏」に対し少なからず、不安や疑問をもたらしたと思われます。だから、親鸞は師のたどった足取りを自らの足で歩き直すように、念仏について検証しなおしていったようです。念仏の教えにつながる経典類を読み直し、分かった気になるのですが、すぐに新しい疑問が沸き、また経典に答えを探すことを繰り返したことでしょう。しかし、結局のところ、親鸞にとって念仏への信心の根拠は法然に直接教えられ、救われた「喜びの体験」以外になかったのではないでしょうか?だから、関東から京都まで、命がけの旅をして訪ねてきた弟子たちに、「法然様が言われたことを信じているだけである。」と言い切ることができたのでしょう。
それにしても法然と親鸞の信頼関係はなんとすばらしいものでしょうか。私は「歎異抄」を読むたびにその関係に憧れ、「嫉妬」に近い感覚を覚えます。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:10 AM











