第九章 私の意訳 私の解釈
2009年8月13日
第九章
念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらわぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じてみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また、浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなきましと、云々。
私の意訳
「念仏を称えているのですが、天に舞い地に踊るほどの喜びのこころがわいてきません、また、いそいで浄土へいきたいと思えないのはどうしらよいのでしょう。」とお尋ねしたところ、次のように答えていただきました。「親鸞も同じ疑問があったが、唯円房も同じように考えたのですね。しかしよくよく考えてみれば、天に踊り地に踊るほどによろこぶべきところを喜べないのは、いよいよ浄土にゆけるとおもうべきなのです。喜ぶべきこころをおさえて、喜ばせないのは煩悩の為です。ところが、阿弥陀様はあらかじめそれを知った上で、我々を煩悩具足の凡夫といわれているのであり、阿弥陀様の悲願はこのような私たちのためであるとわかり、いよいよ頼もしくおもえるのです。又、浄土へいそいでゆきたいと思えず、少しでも心配なことがあれば、死ぬのではないかと不安になるのも、煩悩のさせることです。遠い昔より、いままで流転してきた苦悩の世界がすてがたく、いまだに行ったことのない浄土に行きたいと思えないのは、本当に煩悩が強いからなのです。なごりおしかろうと、娑婆の縁がつきて、ちからなくしておわるとき、浄土にゆくことになるのです。阿弥陀様はいそいでいきたいと思えないものを、とくに哀れにおもってくださっています。だからこそ、いよいよ阿弥陀様の請願はたのもしく、浄土にゆけることがきめられているとわかるのです。もし、天に舞い地に踊るほどの喜びがあり、いそいで浄土へゆきたいとおもえたら、煩悩がないので、阿弥陀様に救っていただけないのではないかと心配になりませんか?」と親鸞様はそういわれた。
私の解釈
弟子の唯円は師親鸞に「念仏を心から信じることができない。」とその心中を赤裸々に告白します。それに対し、親鸞は「唯円房私も同じだよ。」と語りかけるのです。そうなのです。親鸞にあっても「念仏すれば浄土にゆける。」ことに対し、時折疑問、不安を感じられていたのです。親鸞はここまで私たちに自分の内面をさらけ出してくださるのです。なんと有難いことでしょう。私もそうです。厳密な意味で、浄土や、阿弥陀様の存在を信じきることができません。しかし親鸞はそれでいいとおっしゃってくださいます。この人間くさい親鸞に私は深い共感を覚えるのです。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:23 AM











