第三章 私の意訳 私の解釈
2009年8月13日
第三章
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべかざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。
私の意訳
善人だって往生できるだから、悪人は当然往生できます。しかし、世間の人々は悪人が往生できるなら、善人は往生できるといいます。これは一見正しいように思えますが、本願他力の教えとは異なります。その理由は自分で善行のできる人は阿弥陀様にすがる気持ちが弱いので、阿弥陀様に救われにくいのです。しかし、自力のこころをやめて、阿弥陀様にすがる気持ちになれば、往生できるのです。欲の深い哀れな私たちがどんな修行でも生死の苦しみから逃れられないことを哀れにおもって阿弥陀様が願を立ててくださったのです。だから、阿弥陀様にすがる悪人こそもっとも往生しやすい人なのです。だから、善人だって往生できるのだから、まして悪人は往生できるのです。
私の解釈
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。」は親鸞もしくは歎異抄のなかで一番有名なことばです。「悪人正機説」ともよばれます。ここで使われる悪人および善人は一般につかわれる定義とことなります。故にいつも誤解をうけるようです。
一般的な定義
悪人:犯罪者、利己主義者、等
善人:善行を行える人、博愛主義者、等
歎異抄での定義
悪人:完全な善行などできないと自覚のある人
善人:完全な善行ができると思い込んでいる無知な人、又はおごりのある人
繰り返しになりますが、親鸞は自分が悪人でることに悩み、修行にやぶれて、比叡山をおりた人です。そして、悪人のままでも念仏すれば往生できると教えられ、法然に救われたひとです。ですから、一見奇をてらったようなこの文章も念仏の教えを正しく理解すれば、決して不可解なものではないのです。
ここで、「本願他力」という言葉もでてきましたので、一緒に説明します。一般的には「他力本願」とよばれますが、他力とは阿弥陀様の力のことです。あまりにも誤ってつかわれすぎて、辞書にも載ってしまっている意味「他力本願」=「他人任せ」ではないのです。
もうすこし、「他力本願」について、述べさせていただきますと、一般に法然が浄土宗にて「他力本願」=「念仏を称えれば、どんな者でも救われる」という「教え」を広め、弟子の「親鸞」が念仏するこころがおきることも「御仏のお計らい」によるものだとし、「絶対他力」という「教え」に深めたとされています。
ここからは私の解釈なので、史実と違うかもしれませんが、私にはこうとしか思えないので、私の私見を述べさせていただきます。
私は法然の中にも念仏するこころがおきることも御仏のお計らいによるものだとする、「絶対他力」の思想があったのではないかとおもっています。なぜなら、「ナムアミダブツ」と称えれば極楽にいけるという解りやすい教えは多くの人を救うことができますが、たとえば「口のきけない人」はどうでしょうか?念仏が称えられないから、極楽にはいけないのでしょうか?又、まだ言葉をおぼえる知恵のない子供、痴呆の老人、知的障害者はどうでしょう?彼らを救う方法は無いのでしょうか?「智慧第一」いわれた法然がそんなことに気づかないわけがありません。でも、念仏を称えるこころがおきることさえ「御仏のお計らい」などといっても民衆には理解しにくくなるだけです。だから、法然は大衆の多くを救えるように「ナムアミダブツと称えれば往生できる」に「教え」をとどめてしまったのだと思うのです。しかし、親鸞は違います。法然にとって念仏とは民を救う法でしたが、親鸞にとっては自分を救っていただくために命がけで求めた法なのです。彼は自分こそ悪人中の悪人の自覚がありましたから、どんな人間でも救い取る「法」がなければ、「自分が救われる」ことにはならないのです。だから、親鸞は「絶対他力」まで教えを深める必要があったのだと思います。直接的に法然からそれを伝えられたかどうかは、しるよしもありませんが、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信人もひとつなり」と親鸞が言い切ったことからも、私はそう思っています。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:13 AM











