第一章 私の意訳 私の解釈

2009年8月13日

第一章

 弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とするべし。そのゆえは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。


私の意訳

 阿弥陀様の誓願の不思議に助けられて、往生できると信じることができ、念仏「南無阿弥陀仏」と称えるようと思えたとき、あなたはもう救いとられています。阿弥陀様の本願には年老いた人、幼い人、善人、悪人の区別はありません。ただ、深く本願を信じる心のみが必要です。なぜかといえば、阿弥陀様の誓願は罪の深い私たち凡人たちを助けようとしたものだからです。だから、本願のみ信じれば、他の善行は必要ありません。なぜなら、念仏にまさる善行はないからです。又自分の犯してしまった悪についてもおそれる必要はありません。過去、現在、未来において、阿弥陀様の本願を妨げるほどの悪行などありません。


私の解釈

 親鸞は念仏するだけで、往生できると言い切っています。なぜこんなことがいえたのでしょう?私はこう解釈しています。

 親鸞は自ら「愚禿親鸞」(おろかな散切り頭の親鸞)と名乗るほど、自分の人間としての不完全さを自虐的までに見つめた人でした。しかし、既成の仏教では自分の中の「仏性」を目覚めさせることが重要であり、その為に、学問をし、修行をし、善行を行い、煩悩を捨てて悟りを開くことが、本道であるとされていました。

 親鸞も比叡山で修行してそれに立ち向かいました。しかし、神経質で、完全主義者の親鸞には自分の中にあるわずかな煩悩さえも許すことができませんでした。だから、たとえ確かに行った「修行」「善行」でさえ、そんなものを根拠に自分の中に「仏」という「完全な存在」があると思うことができなかったのだろうと思います。だから、親鸞には煩悩の深い自分のままで救われる方法が必要でした。それが、法然に教えられた「念仏」だったのです。

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:08 AM