私にとって「歎異抄」は「実用書」

2009年8月13日

 少し俗な例えですが、私は「うつ病になった自分」を「肩を痛めた野球の投手」になぞらえることができると考えています。私は肩を痛める(うつ病になる)まで、全力投球を身上とする投手のようなものでした。しかし、私のピッチングホームは肩にとても負担がかかるものでした。その為、ついに私は自分の肩を痛めてしまいました(うつ病の発病)。私は肩を直す為に、しばらく治療と安静をとりました。そしてその結果、一応肩は直りましたので、再びマウンドに上がるようになりました(仕事への復帰)。しかし、一度痛めた肩は、前よりも無理が利かなくなっていて、力いっぱい投げると、又、肩を痛めるかもしれません。そこで、私は肩を痛めないように、力まずに、全身をうまく使って投げるピッチングホームへの改造を試み始めました。それが、私にとって「他力に任せる生き方を身につけること。」なのです。肩を痛めたこと(うつ病を病んだこと)はそれまでのピッチングホーム(生き方)に無理があったことを知らしてくれる縁なのでした。ピッチングホーム(生き方)を変えることは難しいかもしれません。でもそれは挑むに値するものだとおもいます。ひょっとしたら、肩だけで投げていたころより、コントロールのいい投手になれるかもしれません。前ほどスピードは出ないかもしれませんが、打者の近くで伸びる打ちにくい球がなげられるようになるかもしれません。「華々しい先発投手」にはなれないかもしれませんが、地味でも必要な「貴重な中継ぎ」にはなれるかもしれません。私にとって「歎異抄」は「教養の為の宗教書」ではなく「正しいピッチングホームを教えてくれる野球教本」のような「実用書」なのです。

カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:27 AM