~うつに悩んだ末に住職にメールを下さった著者が、皆様のために小冊子を作りました~
私の価値
2009年8月13日
私は今でもうつがひどくなると、仕事が手につかなくなることがあります。それでも会社員の私は仕事をしないわけにはいかないので、人の倍以上時間をかけ、やっとの思いで仕事を終わらせます。しかし、その結果を上司にチェックしてもらうと、あちらこちら間違いだらけのことがあります。そんなときこんな自分は「小さくて汚い器」なんだろうなと思わずにはいられません。しかしながら私は「こんなに小さくて汚い器」の自分にも価値があると考えることにしています。私は誰にとって価値があるのでしょうか?少なくとも「会社」にとってではありません。間違いだらけで、しかも遅い仕事しかできない社員に価値などありません。では「友人」にとってでしょうか?仲のいい友達は私を励ましてくれますが、といってもその方々には家族や恋人など、私より優先すべき人がいます。当然のことです。では「私の家族」でしょうか?妻は彼女なりに私を最大限いたわってくれますが、「うつ病」については判らないようで、うつの時にはかえって辛い「励まし」をしてくれることがあります。私は彼女の好意は理解していますが、別の言葉がほしいと思うことはあります。(しかしそれは私のほうが甘えすぎなのでしょう。)一方、私だってかわいいはずの自分の子供を時々「うるさいな。」と思うことがあります。結局人は誰でも「自分の都合」で相手の価値を決めているのではないでしょうか?
では私に価値を与えてくれるのは誰なのでしょうか?それを私は「他力」にお任せしようときめたのでした。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや。」なのです。「小さく汚れた器」の私こそ仏様は真っ先に救ってくださると信じて置くことにしたのです。繰り返しになりますが、私は「阿弥陀如来」や「浄土」の存在をそのままに信じきることができません。でも親鸞様はそれでいいとおっしゃってくださいますし、私は親鸞様以上に「いずれの行もおよびがたきみ」であるので、親鸞様と同じように法然様に騙されておこうと決めたのです。そしてそう決めてから、私のあせりは少しずつ無くなってきて、うつに沈んでしまうときにも、ジタバタせずに「しかたない」とうつのままの自分を受け入れられるようになってきているところです。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:27 AM
私にとって「歎異抄」は「実用書」
2009年8月13日
少し俗な例えですが、私は「うつ病になった自分」を「肩を痛めた野球の投手」になぞらえることができると考えています。私は肩を痛める(うつ病になる)まで、全力投球を身上とする投手のようなものでした。しかし、私のピッチングホームは肩にとても負担がかかるものでした。その為、ついに私は自分の肩を痛めてしまいました(うつ病の発病)。私は肩を直す為に、しばらく治療と安静をとりました。そしてその結果、一応肩は直りましたので、再びマウンドに上がるようになりました(仕事への復帰)。しかし、一度痛めた肩は、前よりも無理が利かなくなっていて、力いっぱい投げると、又、肩を痛めるかもしれません。そこで、私は肩を痛めないように、力まずに、全身をうまく使って投げるピッチングホームへの改造を試み始めました。それが、私にとって「他力に任せる生き方を身につけること。」なのです。肩を痛めたこと(うつ病を病んだこと)はそれまでのピッチングホーム(生き方)に無理があったことを知らしてくれる縁なのでした。ピッチングホーム(生き方)を変えることは難しいかもしれません。でもそれは挑むに値するものだとおもいます。ひょっとしたら、肩だけで投げていたころより、コントロールのいい投手になれるかもしれません。前ほどスピードは出ないかもしれませんが、打者の近くで伸びる打ちにくい球がなげられるようになるかもしれません。「華々しい先発投手」にはなれないかもしれませんが、地味でも必要な「貴重な中継ぎ」にはなれるかもしれません。私にとって「歎異抄」は「教養の為の宗教書」ではなく「正しいピッチングホームを教えてくれる野球教本」のような「実用書」なのです。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:27 AM
終わりに
2009年8月13日
私のような者が「歎異抄」について書くことが許されるのか、今でも疑問があります。本当に私の理解は正しいのか、親鸞聖人の信心を歪めて伝えることにならないかと心配です。
只、私はうつ病を病むことで、歎異抄をすこし深く読めた気がします。又、うつ病の私にとって歎異抄で語られている親鸞聖人の信仰のあり方は最後の自分の支えになりました。ですから、私は私の理解の範囲で、自分に書ける文章で、私にとっての「歎異抄」を伝えたいと思いました。冒頭でも述べましたように、歎異抄は特に絶望を体験された方に響く書物のように思います。実際、癌に侵された方が歎異抄を読まれ、支えにされたといった話を聞いたことがあります。しかし逆に、理想に燃える若者には響きにくいかもしれません。若者には自分の中の仏性を目覚めさせ、善行を行っていく教えのほうが、よほどわかりやすく、響くであろうことは想像できます。しかし、私のような人間は人の役にたつどころか、人に迷惑がかからないように自分の始末もできないのです。「他力」にお任せする以外にないのです。言いすぎかもしれませんが、「選択の余地がない。」という感覚なのです。
最後に、病の私を支えていただいている先輩方、友人、家族にお礼を述べさせていただきます。今まで支えていただきましてありがとうございます。これからも私はみなさんに迷惑をかけながらいきていくことになるとおもいますが、よろしくお願いいたします。
そして本書を書くことを薦めていただき、いろいろご指導頂きました、順慶寺ご住職様、そして老院様、本当にありがとうございました。
平成十五年 初夏
落合政道
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:29 AM
追記:うつの人を看る方へ
2009年8月13日
私はうつ病になってみて、知識として知っていたうつ病と実際のうつ病がこんなに違うものかと本当に驚いています。ですので、今身近にうつ病の方がおられて、どう接して良いのか判らないと、戸惑われている方のために、私のうつ病体験をご説明いたします。
私はうつがひどい時、本当に仕事が手に付かなくなると書きましたが、それはどういう事かと言いますと、たとえば1+1=2という計算が出来なくなります。いきなりで私が何を言っているのかが判からないと思いますので、もう少し説明します。
たとえば、上司が3という結果をほしがっていることが判っていて、実際にどうであるか確認を頼まれたとします。そして集めた資料から、どうもこれは3ではなく2になりそうなだと思ったとします。私は答えを確かめるのが怖くて電卓のボタンを押すことが出来なく成ります。誰が計算しても結果は同じなのですが、上司が嫌がる結果を報告しなくてはならなくなりそうだと思った瞬間に、恐怖心で心身は硬直し、頭の中は真っ白に成り、計算が出来なく成るのです。
「この怖くて出来なくなる」という感覚を説明するのに、テレビ番組の中でお笑いタレントのkさんが経験されていたある事例で例えさせて頂こうと思います。
ある生放送の番組のコーナーに、kさんがバンジージャンプを飛ぶという企画がありました。(ロープを体に縛りつけ、高いところから飛び降りてスリルを楽しむという遊びです。)実はkさんは高所恐怖症でした。おそらく企画としては、kさんが怖がりながら飛び降りる様子は、笑いを誘うだろうという事だったのだと思います。そしておそらくkさんも「お笑いのプロとして、バンジージャンプぐらい飛んで見せよう。」と思って引き受けた仕事なのでしょう。しかし、kさんは生放送であるにも関わらず飛べませんでした。番組を台無しにしてしまいました。そこで、kさんは来週こそは必ず飛ぶと約束し、その週の放送は終わりました。あけて翌週、kさんはもう一度バンジージャンプに挑みました。こんどは額に鉢巻をまいて、威勢の良いいでたちです。しかしまたもや飛べません。おそらくkさんの中には「今週飛べなくて、再度番組を台無しにしたら、タレントとしておしまいかもしれない。」という思いがあったと思います。しかしながらkさんはまたもや飛べなかったのでした。(蛇足ですがkさんはもともと才能がある方なので、今もタレントとして活躍されています。)
これは高所恐怖症の人にしかわからない感覚ではないでしょうか?物理的にいえば、飛び降り台から足を前に出せば飛べるのです。簡単なことなのです。でも高所恐怖症のkさんには飛べないのです。
普通の人にとって1+1=2と計算することは簡単なことでしょう。でもうつがひどくプレッシャーに敏感になっている私には、どうしても出来ないのです。理解していただけないかもしれません。そんな私を見て「出来ない」のではなくて「していない」のではないか?と言いたくなることも容易に想像できます。でもそのときの私にはやはり「出来ない」のです。
私が悩んで仕事が進まないときに、「命が取られる訳じゃないのだから、気楽にやれよ。」と励ましを頂くことがありました。私はその方の好意は理解しているので、「心配していただいてありがとうございます。」と何とか答えたと思います。でも先ほど例にしたkさんはどうでしょう。バンジージャンプは安全な遊びですので、命を落とすことはまず無いといって良いでしょう。逆にバンジージャンプを飛ばないと「タレント生命」は終わってしまうかもしれません。その番組を台無しにした責任を問われて、もう使ってもらえなくなることは十分ありえるのです。でもkさんは飛べないのです。
うつがひどい時の私が「命が取られる訳じゃないのだから、気楽にやれよ。」といわれて仕事が出来るようになるなら、タレント生命が無くなるかもしれないkさんが安全なバンジージャンプをとべない理由など無いのです。
又、別の機会に「くよくよしたってしかたないぞ、元気だせよ。」と言ってくださった方もおられました。その方だって好意をもって言ってくださっています。でも仮に私が風邪で高熱を出していたとしたら、「熱なんか出してないで、元気にやれよ。」とは言われないでしょう。ひとは風邪の苦しさと気持ちで熱をコントロールできないことを知っているからです。でもうつ病は自分の感情がコントロールできなくなる病気であるということは、まだ広く理解されていないので、こういう励ましをされることがあります。大変申し訳ないのですが、好意は理解していても、こういう励ましは辛いものなのです。(ちなみにうつ病は英語で“感情障害”とよばれています。)
何かの本で主婦のうつ病のことが載っていました。うつがひどいと夕飯の献立が決められない、買い物ができないといった状態になるそうです。なぜこんなことが出来ないのだろう。人はどう思うのだろう、こんな自分は主婦失格ではないか?と自分を責める気持ちになるのでしょう。1+1=2が出来なくなる私には、わかる気がします。
うつの人を看る方へのお願いはただひとつ「理解」です。あるいは理解しようとしてくれる態度です。気持ちをそのままわかっていただけなくていいので、どうか、知識だけはもっていてほしいのです。
今、私はこういうことが書けるようになったのは自分が回復している証拠だと思っています。うつがひどい時はしてほしいこと、してほしくないことが言えませんでした。病んでしまった方が、何かを要望するようになったなら、回復の兆しかもしれません。
カテゴリー:うつ病の私、歎異抄の救い | 順慶寺@4:29 AM











